1907(明40)年:目黒不動の近くに人が集まるという理由で
山手線目黒駅から一キロ程離れたこの地に日本競馬会にて目黒競馬場が建設された
総面積六万四千余坪の競馬場は、調教馬場のほか出走馬をファンに見せる引馬場も併設するなど
当時としては目新しい設備をそろえたものであった
観覧スタンドは貴賓室などを設けた三階建ての一号館と
間口が四十八間の二号館から成っていた
用地の大部分は借地であったが、建設を請け負った東京馬匹(ばひつ)改良株式会社が
借地料を相場の四倍も払うとしたうえ
競馬場で作業員として働けば日当五十銭を支払うとしたことから
地主たちは喜んで土地を貸したという
1907(明40)年12月:目黒競馬場での第一回競馬(黙許)が開催された
春秋の開催時には権之助坂から列ができるほどの賑わいを見せていたという
こうして順調な出足を見せた競馬であったが
高じた競馬熱は一獲千金を夢見る人たちが競馬場に押しかけ風紀も乱れはじめた
当時の馬券は一枚二十円で、一レースに一人一枚しか買えなかった
平均サラリーが六、七十円だったというから、観客の中には何人かでお金を出し合って一枚の馬券を買ったとか
入場料は、一等席が五円、二等席が二円
一等席には羽織・袴、または洋服を着用しなくては入場できず
そのため競馬場近くには貸衣裳屋もあったという
1908(明41)年10月:経済的破たん者が続出するなど社会の混乱を恐れた政府は馬券の発売を禁止した
1910(明43)年:目黒競馬場を開設した日本競馬会は東京周辺の競馬会社六社と合併し東京競馬倶楽部と改称する
同年7月:馬券発売禁止の下で開催された同倶楽部の第一回競馬は
政府補助による賞金の獲得を各馬が競うという内容で、お金を賭けられない観客としては興味をそがれるものであった
四日間の開催で入場者は五百人にも満たなかったという
観覧中にひそかに闇馬券を売買したとして
著名人など十三人が検挙される事件が、この第一回競馬で起きている
1914(大3)年:目黒競馬場では勝馬の的中者にデパートの商品券を贈呈するという余興を始めた
この趣向は、たちまち一万二千人を超える観客を呼び込み
馬券が復活するまでの間、観客の興味をつなぎとめた
1923(大12)年:馬券の効用を見直した政府は「競馬法」を制定し馬券発売を認める
(馬券の発売枚数や配当倍率に制限が加えられた上で合法的に再開された)
馬券復活で目黒競馬場は再び活気を取り戻した
<大正14秋季・東京競馬倶楽部主催・勝馬投票券>
競馬は益々盛んになってきたが、敷地が六万余坪しかない目黒競馬場では拡張の余地がなく
その上、敷地の大部分が借地であり
地主からは地代の値上げを要求され
一部町会議員からは町の発展を妨げるとして移転論まで出てきた
東京競馬場倶楽部側としては、将来大競馬場として理想的に計画改築するには
他の土地に移転するしかないという結論をだす
1933年(昭和8)11月:春季開催を最後に府中に新設された東京競馬倶楽部>東京競馬場にその役目を譲り
目黒競馬場の歴史に幕を閉じる
同年11月8日:東京競馬場(府中)にて竣工式が施行され、同月18日に第1回の競馬が開催された
現在競馬場跡には住宅や区立不動小学校などが建ち
当時の面影を残すのは
下目黒四丁目の競馬場外周の道や目黒通りの「元競馬場前」というバス停だけである
東京府荏原郡下目黒村
|